今から34年前に始まり、平成災害の嚆矢 (こうし) となった雲仙・普賢岳の噴火。前半の記事では、そのスクラップブックが誕生した経緯を紹介しました。
それでは、今その内容に再び脚光を当てることはどのような意義をもつのでしょうか? 過去の出来事をもとにこれからの世の中を変えることはできるのか?
これらの新聞記事は26年前の1998年、川原先生から県立図書館へと寄贈されました。それが大学生の手を経て、さらに多くの人に広められようとしています。
このバトンリレーが、これから10年、20年と続くように。二度と悲惨な経験を起こさないための力となるように。今後の展望を話し合いました。
お話を聞く学生
学生たちがさらにたずねていくと、いろいろな話が飛び出します。じつは、スクラップブックづくりで大変だったのは「いつこれをやめるか」ということだったそうです。1998年、97冊目までを長崎県立図書館に寄贈したあとも、先生はスクラップブック製作を継続していました。しかし、記事の内容はだんだんと火山や避難生活のことでなく、振り返りや記念行事になっていたためです。また、高校の中では、これを自ら活用する手立てもなかったそうです。
それでは、スクラップブックは将来、どのように活用されると思っていたでしょうか。川原先生によると「このスクラップブックは、吉田先生に見つけてもらうのを待っていた」そうです。大学等の研究機関でなければ、なかなか、腰を据えた研究・教育をおこなえません。そこで、大学教員の手を経て、地域の人々や若者が一緒になってスクラップブックを活用することが考えられていたということです。これを聞いて、吉田先生もゼミ生たちも、自分たちがしっかりバトンを引き継ぐ責任を感じました。
懇話会の後半は、これからのアクションについて話し合いました。川原先生は、小・中学生が島原半島の高齢者や保護者から災害の体験を聞くための素材として使えるのではないか、という提案がありました。郷土資料センターの指導主事、山口保彦先生からは記事の内容を検索できるようにすれば、活用の幅が広がるのではないか、という示唆を得ました。また本学の吉田先生からは、雲仙岳災害記念館(がまだすドーム)の展示コーナーにタッチパネル式のスクリーンを置き、子どもたちが遊び感覚で記事をめくれるようにするというアイデアもあると紹介されました。
小・中学生にとっての雲仙・普賢岳について話す川原先生
これを見ながら話せば、大人の経験談を聞きやすい?
※モニターに映るのは「仁田道の規制続行」の記事(長崎新聞 1990.11.23)
今回の催しによって、新たな発見がありました。それは、スクラップブックの「続き」が残っていたことです。ここまでの記事でも紹介したように、この日まではスクラップブックが「97冊」だけだと思われていました。現に、郷土資料センターに保管されているのは第1冊目から第97冊目までです。ところが、今回のために川原先生が長崎西高校に赴き、かつて製作した「続冊」が残っているのを発見されたのです。
今回、川原先生が持ってこられたのは合計7冊、98冊目から108冊目までです(途中の100~103冊目は除く)。確認できる最後の日付は2006年11月11日となっています。最初の噴火確認から16年近くの報道を記録しているのですね。懇話会の締めくくりとして、これらの新たな7冊を郷土資料センターに寄贈することととなりました。県民の資産が新たに増えたことは、懇話会の意外な成果となりました。
鎮西学院大学では2024年度を通じ、島原半島の小・中学生たちと一緒にこの噴火災害を振り返ります。同時に、災害の過程で生じた様々な問題がその後の日本社会でどのように受け止められ、どの程度その教訓が生かされているのかを考えていきます。国際社会では現在、福島原発事故への対応をきっかけとして日本社会の避難者支援のあり方が注目されています。その出発点となった雲仙・普賢岳の「警戒区域」設定について、各地の被災者、専門家ととともに考えていきます。
97冊目を見ていく吉田先生
新たに見つかったスクラップブックについて
26年ごしの追加寄贈を受け取る山口先生(右)
このたびは、お忙しいところ時間をとっていただいた川原先生にお礼を申し上げます。また、今回の活動に協力していたただいた長崎県立長崎図書館の郷土資料センターにも感謝申し上げます。
まだ、スクラップブックの画像データ化は端緒についたばかり。しかしそれを仕上げていくこと、そして誰かのために広く活用していくことが今後の課題となります。長崎県内、そして全国の皆さんに、この活動を見守っていただければ幸いです。
前半の記事:
データ分析の結果(予備的知見):
論文:「雲仙普賢岳の平成大噴火報道 国内新聞記事のデータセット (1990.11-1998.07) による予備的知見【英文】」